ある全国紙で、日本人の倫理観の変遷についての連載記事があって、読んだ後に少し思いを巡らせた。
いろいろと懸念や危惧すべき兆候があるのも確かだと思うが、日本は多分世界でも一、二を争う清潔・便利・丁寧・安全な国だ。路上のゴミは少ない。電車やバスは時間通りに来るし、座席に土足を乗せる人もいない。公共の図書館の本にも無断持ち出しを防ぐ為の磁気テープ(レンタルCD屋にあるような物)は無い。買い物の際も、商品の包装、受け渡し、店の清潔さ、陳列等総合的に見ても、その水準は世界に類を見ない。公共の場で携帯電話を使用する人はとても少ない。そしてまだまだ安全だ。銀行でさえも屈強な警備員は常駐していないし、行員との間に強化ガラスの無い、完全な対面式だ。ただ一方で、個人がそれぞれ属する組織の外での日常的利他行動、例えば高齢者等に席を譲るとか、自分の後ろを歩く人の為にドアを支えておくとか、重そうな荷物を運んでいる人を手伝うとかは、不釣合いなほど不足しているように見える。たまに新聞の読者投稿頁等に、「電車内で、座席を譲ってもらって嬉しかった」、「譲ってもらえず大変だった」という妊婦さんや高齢者や障害者の投稿が掲載されるが、こういうのは、今でもやっぱりちょっと独特だと思う(先日もまた載っていた)。
この不均衡は何だろう。日本人は恥ずかしがりだと言われるが、確かに日本で日本人同士がこういう事をするのは、ちょっと恥ずかしく、実際少しの勇気が必要だ。もちろんその人次第だが、こうした雰囲気は間違いなくあると思う。自分も海外から戻る度に、周囲と違う自分に暫くして気が付き、ある程度は郷に入って郷に従ってしまう。ところで、この「恥ずかしい」という観点で日本の公共空間の秩序維持について考えれば、「公の場所で自分ひとりが迷惑行動をとると不特定多数の他人を煩わし、恥ずかしいから控える」、という事だろうか。そしてこの裏を返せば公共の場における個人の善行等に躊躇するのは、「その他大勢の注目を浴びるのは恥ずかしい」のだろうか。
もう少し想像してみると、個人が公私を分けて捉え、組織等の何らかの器への具体的・個人的な所属感覚が存在する場面では、正当化された個人の行動つまり「決まり事の順守」が「公共心」となって具現化しているものの、一旦組織から離れた「個人」となると後ろ盾が無いために恥ずかしくなったり、果ては義務ではない為に無関心になったりするのかもしれない。こういった現象の背景にはまた、「欧米式個人主義」が「他人への(時として自主的な)無関心」として歪んで根付いてしまったことや、日本は生活領域全般が他国に比べて圧倒的に便利な一方で徐々に互助の必要性が薄れつつあることも指摘できるようだ。国民性と言ってしまえばそれまでだが、いずれにしても、自分も日常的にもう少し行動できればと思う。
国民性と言えば、以下のジョークがある。
The captain urges the passengers to dive into the sea.
He says to the American man , "you will be a hero if you do it." ;
to the British man, "you will be a gentleman." ;
to the German guy , "this is an order to jump." ;
to the Italian man , "you will be loved by many women later." ;
to the French man, "don't jump" ;
and to the Japanese man "everyone is jumping!"
ウーン…。
閑話休題。日本人は、公共空間における行動に関しては、自己顕示欲がもう少し強くても良いのかもしれない。
ところで前に少し触れたカナダ人研修生の三人が来日、企業研修が始まる。二ヶ月の滞在を通して、彼らは日本からどのような印象を受けるだろう。<了>
2 comments:
「みんな同じ」というところに美徳を感じるのが日本文化、というか日本人の特色(?)なのでは・・・?(格差社会、とか言われてるけど実際ほぼみんな中流なんだし・・・)ほら、引用した国民性ジョークにもあるじゃない、'everyone is jumping'と。。
だから「日本人は恥ずかしがり」というよりは、「日本人は周りと同じでないことに抵抗(もしくは不安)を感じる=つまり恥ずかしく感じる」ということなんじゃないかな。。
だから、座席を譲る人が少ない(譲らないのがmajority)なら、自分もその大多数の一員でいたい、という気持ちが働くのかもね。それは決していいことではないけれど。
座席を譲るとか、手伝うとか、そういう当たり前のことを当たり前のようにできるっていうのはかっこいいと思うな。
それから
「欧米式個人主義」は
「他人への(時として自主的な)無関心」と
して歪んで根付いてしまった
だけでなく、「『みんなと同じ』じゃなくていいんだ」、ってところから何をやっても「個性」の一言で片付けたがる人がでてきたことにも大きく関わっているんじゃないかな、と思えるなぁ。
またとりとめないや。ごめんよ。
そのとおりだと思う。「みんなと同じじゃなくていいんだ」ということ際の視野が広がれば良い個性で、狭ければ自己中心ということかな。
アブストラクトなアイデアが伝わっていたようでよかった。
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