Sunday, 15 April 2007

外国語学習等に関する一考察

最近雪は解けたもののまだ少し寒い。車のタイヤを夏タイヤにした。このブログを読んでくれている人の中には知っている人も多いと思うが、自分は業務上外国語を使って主に海外とやりとりをしている。そこで今日は外国語に関する私見を少し。

日本には英語等の外国語が溢れている。ヒットチャート入りする歌手と歌の名前そして歌詞、会社や雑誌の名前、テレビ(タイトル等)やラジオ番組(英語で挨拶や曲紹介するFMDJ等)等々。ところが端的に言って、日本は外国語が殆ど通じない国だと思う。そして実際日本人は外国でも外国語が話せない人々と見られている。「日本語は他の外国語と文法的に異なる」、「植民地になった事が無い」、「来日・滞在する外国人が少ない」、「日常生活に必要が無い」等々の理由はさて置き、事実は事実だ。そして、外国で「日本人は外国語が不得意」と思われる理由は、日本には、行こうと思えば外国に行ける人が多いという経済的に恵まれた環境があるという事も少し関係していると思う(Toefl 等の試験の結果は日本より途上国の受験者の平均点の方が高いのは、途上国では国家開発の為にかなりの高等教育を受けている所謂「エリート」及びその予備軍が多く受験するからであるとも言われているが、これに少し似ている)。

「これからは国際化、地球規模化の時代だから、これまでと比較して外国語が重要になってくるだろう。そこで国際語である英語をもっともっと勉強するべきだ、第二公用語にするべきだ、そして世界を舞台に活躍する日本人を育成するべきだ」という考えもある。確かにそうだと思う。実際自分自身、英語のお陰で本当に視野が広がった。しかしこういった考え方には限界があると思う。もちろん、早めに外国語を習得するのは有利な面もあるだろう。実際、語学熱、こと英語熱は相変わらず高い。いろいろな人がいろいろな学習方法を唱えているようだ。文法は不要だとか、中学英語で十分だとか、読み書きは不要だとか、英語のシャワーだとか、寝ている間に学習だとか、寝るまでに一度は英語でしゃべらないと、とか…。それぞれに言い分があって、正しいのだろうと思う。寝ている間っていうのは眉唾だけど(でも広告をよく見かけるからそれなりに儲かっているんだろう)。

英語学習者の多くは海外旅行を楽しみたいと言う人も多い。でも旅行なら便利で安いツアーがある。個人旅行もクレジットカードと現金があれば何とかなる。もちろんそんな旅行じゃなくて、現地の人と会話したい、と言う人も多い。ただ会話は双方向だ。だから、外国人が言う事を聞き取れたならば、当意即妙の反応が求められるThe ball is in your court. これには慣れによって身につく度胸も大切だが、それよりも重要なのは、話のネタが頭の中にあるかどうかだ。

これは、一般的な旅行そして多種多様な好奇心の充足の為だけでなく(大抵はこれかな?)、前出の所謂「国際人の養成」にとっても不可欠だ。どんな場合でも英語は、手持ちのネタを正確に、効率的に披露するための道具だからだ。言語学を究めない限りは、言語はそれ以上の物ではないし、だからこそ流暢かどうかは決定的に重要な問題ではない。国際舞台にいる人々を見ればそれが分かる。政府間協議に出席したり、宇宙船に乗ったり、野球やサッカーで活躍したりする日本人の多くが話す英語は勉強して身に着けた英語が殆どだ。決してネイティブならではの表現の多い所謂「格好の良い」英語ではない。しかしながら内容が濃かったり、彼らの人となりが垣間見えたりするわけだ。更に書けば、彼らを羨望の眼差しで見る多くの日本人は、そんな彼らを「外国人と同化して活躍する日本人」として見るのではなく、むしろ彼らの中に「良き日本人」の特長を見出して心理的に充足され、また誇りを持つのではないか(彼ら自身も宇宙船内で日本文化を紹介し、日本の子供達に語りかけ、代表チームの勝利のために憂え、燃える)。つまり肝要なのは「外国語=流暢に話せて何ぼ」とか「外国語習得=外国人に変身」という次元の話ではないと、多くの人が実は、無意識的であっても知っている。蛇足ついでに書けば、いくら「英語脳」を「構築」する事ができたとしても、四六時中英語脳で思考するネイティブとは比較にならないし、その他ノンネイティブの多くも、「単純な英語脳」の土俵には立っていないことが多く、肩透かしを食らう。

ちょっと逸れたが、言語に関しては、その中身を養う事が最重要課題だ。換言すれば、外国語習得(可視的)即ち中身の形成(不可視的)ではあり得ない。言語習得をすれば、もちろん利用可能な情報量は増えるだろう。しかしながら、外国語の駆使の前に、思うままに操れるはずの母語である日本語ですら中身の形成は難しいという現実がある。実際自分も含め、日本人の多くはどんなに贔屓目で見ても、多くの外国で「知っているのが前提」となっているような各種世界事情に(程度の差こそあれ平均すると)かなり疎いし、したがって独自の意見を持たない場合が多い。日本国民の殆ど全員が少なくとも9年の教育を受け、ますます多くの人々が高校だけでなく、大学にまで行っているにも拘らず。また、本屋に行くと、「これ一冊で○○がわかる」、「早分かり○○」、「3日で完成○○」という親切な本がよく目に付く。自分の知る限り、この類の本の数、種類は日本が圧倒的に多い。確かに表面的で広く浅い知識を得られて便利だし、それを布石にして知識を追求することにも繋がり得るのだが、そこで終わると深く考えなくても凌げる。これはでも、日本の強さでもあると思う。手っ取り早く痒いところに手が届く感じで。

まあこれから少子化がますます進んで、子供に対する期待が大きくなるかもしれない。中身である意見と道具である言語を同時に習得できると良いと思う。日進月歩でそんな方法ができたら、自分も羨ましく思うだろうな。

というわけで、少し憂国の士の様だが、上記のように頭の中で後知恵をまとめた。後知恵だけに、文字通り後になって得られた。となると、裏を返せばそれは当事者であった頃の自分には欠けていたということだ。当事者向けの話ではないのかもしれない。


<了>

2 comments:

Anonymous said...

>当事者であった頃の自分には欠けていたということだ。当事者向けの話ではないのかもしれない。

同感。言語は手段であって目的ではない、中身がないと意味がない、ってことは、実際ある程度話せるあるいは相手の言っていることがわかるレベルになっていないと気づけない。
でも、そうだとすれば、それをそのまま言葉にして伝えても学習者には届かない。てことは、そんなideaだけを謳っていてもしょうがないんだよね。
じゃぁどうするか。きっと、(例えば中学もしくは高校なら)まずは英語以外のところで自分の考えをもつことができるような、そしてそれを母国語で表現できるような指導をしていくこと。英語の時間はターゲットとなる表現をつかって、少しでも自己表現をできるようなパターンプラクティスを取り入れていくこと、そして何よりこの両方が行われること・・?なんて思いました。えらそうだけど。

ただ、子どもを見てるといいたいこと(書きたいこと)はあるのに、中学校の文法じゃ表現できる範囲が限られていて、できない、ってことも往々にしてあるので・・・
うーんなんとも言いがたいなぁ

とりとめなくなりました。ごめんなさい。

'Yankee Mike' said...

>少しでも自己表現をできるようなパターンプラクティスを取り入れていくこと、そして何よりこの両方が行われること

の重要性に、気が付いていたら自分の勉強もより効率的だったと思うんだよな、やっぱり。でも思い起こせば、そんな事を言っていた人がいたような気もする。まあ勉強中は目に見える部分(話せるということ)を重視するあまり、そんな事は馬耳東風だったのかもしれない。

でも気が付いた人こそが、とにかく、少しでもそれを経験談として伝えるべきだろう。それによって誰かの役に立つ気がする。このようにして人類は、様々な分野で漸進してきたはず。経験者は諦観せず、知識を還元しないといけないな。