今日は夜に時間を見つけてジムに行ったのだけど、混んでて走れなかった…。筋トレだけだ。ランナーズハイというのが、きっとあるけれど、おいおい、そこのきっと元陸上部然とした人たち、何回も連続してマシンを使うなよと思いながらも、その証拠が彼らの額に残る汗しかなく、何とも言えない、ちょっと手も足も出ない状態。60キロの道を62キロで走る車を警察が捕まえないのって、こんな感じか。
さて今日は某駅で道を聞かれて、快く、教えたのだけど、それが中国の女の子で、案内中に出身はどちらと尋ねてみれば、南京、ナンジンと言うではないか。あぁあぁ、中華民国、今の台湾が首都だと主張した所だな、なんてことが、チラッと、ほんのチラッと頭に浮かんだけれど、そんなことを言うつもりは全く無い。だから言わないし、言う必要は全く無いんだ。その無邪気な、そして少し待ち合わせに遅れているせいで若干あわてている様子を見れば、そんなことはすぐ忘れるものだ。
そうそう、ナンジンといえば、戦争中に「虐殺」があったとか無かったとか言われている場所だな。あったとか無かったとかいう人たちは、その多くが戦後の研究者。あれこれ資料を集めて、それらしく主張する一群の人人。決してその場所に生きて、それを経験して、さらにそれを当時客観的、科学的に見た人ではないことが、これはもう圧倒的に多いわけだ。そういった人人がメディアに登場、それらしく話す。自戒をこめて自分もまた、他の多くの人人と同様、自分の守備範囲以外のことは、結構、それもそれが高尚な話、正義や歴史や人権関連の話しだと特に、へぇ、そうなんだ、と聞くんだ。最近は穿って、←よく言えば(良いかな?)…、端的に言えば→ひねくれてメディアに接しているつもりだから、本当かよって、多分必要以上に思っている。自分。
これが厄介。何がか。今を生きる、carpe diemな人人、まぁ全員がそうではないが、そんな人人が、かつてのしがらみに、その霞のようにさりげない、ひもに、繋がれているということが、厄介。生まれた時は何も知らない。誰も知らない。そんなことを社会的に「覚えて」いくのだ。だから不必要に喜怒哀楽が生まれる。なんとなく、自分達が歴史の一部になっているように感じる。感じるだけだけど、実際。だって、当事者じゃないから。当事者の衣を借る狐、みたいな。いや借りていないかな、むしろ伝聞を伝言ゲームみたいにミスらずに伝える、みたいな。
アウシュビッツに行った時。ガイドの青年が、毎年、アウシュビッツは虚構だと言う人人が施設を訪問するのだと言っていた。
しかしグローバルだ、自由だ、共生だ、とか言う割りに、つまり普遍的価値を信奉するような人人は、それをローカルな部分にあてはめて、そして時空を超えて、人人を裁こうとする。楽チンだな。確認できないこと、根拠のないことを、よーいドンのスタート地点にしてさ。でもストレス解消にはなるんだな。They are the problem, not us.ということで。I'm not a plastic bag.に似ている。最近見ませんね。Oxford Streetに、ニセモノが、茶色になりかけたビニール袋を被せられて売られていたな。
というわけで。その南京の子。道案内して、でも怪しく思われたくも無く、自分から離れるようにしてさよならしたら、2,3回こちらを振り向いて、待ち合わせしていた従兄弟を見つけたらしく、安心した様子でにっこりして会釈しているのが、視界の隅に入った。軽くこちらもバイバイみたくして、一日一膳終了。
はっきり言ってさ、ゴチャゴチャそれらしく言っている人達のことを、日常を精一杯、普通の人に戻りたくて引退する芸能人が多分憧れているような、そんな日常を、生きている人たちは、あまり興味が無いのだろうかな。勝手にやってくれ、こちとら普通にやってるから、ああだこうだは勝手に言っててくれ、みたいに。そこまでさえも思わないかな。
さて大量の作業がある。やらないと。
end
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