Monday, 6 August 2007

悲喜こもごも

遠方から戻って約1週間だが、その後心身の調子がなかなか戻らず孤軍奮闘している。雨天や曇天が続くので、夏を待ち焦がれた人には残念だろうが、自分にとっては悪くない。むしろその方が休まるからありがたい話だ。

普通に過ごしていれば、いろいろな出来事や催し物がある。嬉しい催し物、悲しい催し物、楽しい出来事、嫌な出来事。前者は一時的だが、後者はそうではない気がする。嬉しい出来事があれば、喜ぶ。後の励みとする、心の支えとする、自信をつける、一層努力する、次の目標を立てる。これらは全て、前向きなものであるが、「祭りの後」は必ずやって来る。勝って兜の緒を締め、そこからが大切だ。

一方で悲しい出来事があれば、それを自分の中で処理する必要がある。これには長い時間がかかる。よく、寝れば忘れるとか、買い物するとか、旨い物を飲み食いして考えないようにするとか、嘯く輩がいるが、それはあり得ない。実はそうありたいだけか、余程愚鈍なだけであり、学びは少なく、即ち自分自身に小さな嘘をついているだけである。そしてしばしばこの類の忘却が正しいかのように吹聴されているので、当人もそう思ってしまうことがある。しかしながら、本当に自分で根本的に処理するということは、それ程単純ではないのだ。自分の手の届かない場合は特にそうだ。

いつも幸せな、明るい、軽薄な振りをして生き方や仕事をしていると、一見理想的な、前向きな、元気な人のように振舞えるのだが、実際は少しずつ心労がたまる、身体に異常をきたす。表情や目にそれが表れる。実際はそんなはずは無く、否定できない人間の本質に一致しないからだ。つまりその本質が疲弊するのである。多分このような疲弊を少しでも緩和する為に、ここ数年の間、癒しやリラクゼーション関連の色々な物が流行ったりしているのだろう。その理由や背景は別として、まあそのおかげで食える人がいるのだから、悪いわけではないだろうが、いずれにしても一時的なものであることを念頭に置いておかなければなるまい。一時的なものは、手を変え品を変えて現れるので、休む暇も無く、つまり自分の中で処理することはさておいてそれらに癒される。合法だという点、そして手段が次から次へ変わるという点を除けば、麻薬等と大して変わらない、中毒性のあるものだ。

人間の本質について、ついでに言えば、人間である限り、自分の能力を発揮できたり、旨い物を食べたり、贈り物をもらったりすると、世界中の誰でも嬉しいだろう。その逆もまた真である。そういった人間の本質は、ある。そこに影響を与えるのが、その社会の構造であったり、生い立ちであったり、周囲の人間であったりするのだ。前々からなんとなくこういったことを感じ、考えてきたわけだが、だからこそ休息中は、こういった社会構造なりを自分の頭の中で整理整頓し、理解を深め、その中で自分がいかにあるべきかを考えたいと思う。

今はこんな事を書いたが、後日読むと馬鹿らしい話かもしれない。まあその程度で良いのかもしれない。


end

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