ちょっと寒い。
特にスポーツの分野では、日本と韓国は良いライバル関係にあると思う。そこで、スポーツは別にして韓国が嫌いだ、と声を大にして言ってみるとする。実際には言わない。嫌いではないから。するとどうなるだろう。差別じゃないか、という声が聞こえそうだ。次にガーナが嫌いだ!と言ってみる。アフリカ差別だと言う人が出てくるかもしれない。それではウクライナはどうだろう。途上国差別だということになるだろうか。次。カナダが嫌いだと言ってみる。どうしたの、何かカナダに関連して嫌なことがあったのかと訊かれるかもしれない。差別にはならない。
上記のカナダ以外の国に対しても、差別意識が無くても、いろんな理由で嫌いになるかもしれないのにな。
これらの話を全部まとめて脇に置いてから言えば、我々は嫌いなものを嫌いと言っても構わないはずだ。個人の気持ちの問題だから。
もちろん個人と国は十把ひとからげに同一視できない(但し個人と国家の関係は絶対化する傾向があるので、我々はそのような一方的な意識を持ってしまうということは否定しない)。この意味では、人間がどこどこの国が嫌いだ!と言うのは理解できる。自分はそんなことを言うつもりは全く無いが。と言うのは、それが間違っていると思うから。そして国しか見ないと、個人が見えなくなってちょっともったいないと思うから。でも実際はそんな気持ちを持ちそうなこともある。
問題は、複数の異なる国に対して同じ発言をした時に、どうして差別としてとられることがあったり無かったりするかだ。歴史的な問題もあるだろう。と言うか、それがおそらく大きいだろう。現代に生きる限り、つまり先人達の後を継ぐ限り、過去の過ちから学ぶということは必然と思う。
とにかくだ。人は学べば学ぶほどに、否、情報を得れば得るほど、既存の情報の影響を受ける。世界各国の赤ちゃんを集めて、歴史や政治の問題を、仮に教えなかったら、どのように成長するだろう。これは現実的ではないが。なぜならそれは愚民政策になり得るからだ。
例えば。韓国人は熱い。そしてメディア等を見れば、熱く一丸となる傾向があるようだ。それがネットで批判されたり誹謗中傷されたりする。実害を被ればそれに対して反応しても良いと思う。国家が強ければ、その影響を成員が強く受ける。だからちょっと冷めてというか、覚めてというか、そんな感じで見ると、国家の影響を受けている人々が、愛すべき人々のように見えることは無いか。社会的に作られているものと言うか…。実害が無い限り、そのような人々を敵対視しても意味が無いように思える。どうにもならないことを理由に、批判や嘲笑の対象にすることが、いかに下らないことか、ちょっと思い出したい。
さてオバマ大統領の問題発言。揚げ足取りのようで心苦しいが、意外だったので載せてみよう。発言後も悪びれた様子が無いのが気になるところ。どうにもならないようなことを、冗談のネタに使うことは、間違っていると思うが。
end
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